2007.10.23 (Tue)
音楽って
音楽ってなんだろう。
そんなことを考える。
音楽はとってもいい、ギターに限らず、笛もバイオリンも、民族楽器も太鼓も全て音楽を紡ぎ上げる材料は全て好きだ。特にギターが好きなのは言うまでもないが、それは僕がこの人生の中で最も深く関わった楽器だからだろう。もし、中学校で吹奏楽部に入ってたら、他の楽器にのめり込んでいただろう。フルートか? トランペットか? 自己主張の少ない僕はなり手の少ないマイナー楽器をやっていたかも知れない。
オカリナが好きだった時期もある「宗二郎」ってオカリナ奏者がいたとおもうけどそのCDが好きで借りてきてはテープにダビングして聞いていた。こうして考えると、昔から独奏楽器が好きな傾向がある気がする。
なぜこんな文化が生まれたのだろう。音楽には国境があるようで、国境はないきがする。ヨーロッパで生まれた音楽は日本人に理解できない訳ではないし、アフリカの民族音楽でも日本人は心癒されることはあるだろう。もちろん、民族性やその周りの環境で生まれる楽器も、リズムも、旋律も全く違うかも知れないけど、旋律というのは言語と違って勉強しなくても理解できる。
ヨーロッパで生まれた音楽は学問として確立されているが、別にそんな学問が無くとも聞くことは出来るし、理解することができる。「ド」という音に「ミ」と「ソ」の西洋音楽的に「3度」と「5度」の音を重ねると「主和音」になって非常になじむ和音になる。しかしこの3つの音が馴染むと言うことは、聞いてみればわかる。別に日本人だろうが、アフリカンであろうが、アラスカのエスキモーであろうが音が卯という学問を知らなくとも、理解できるし感じることができる。
またそれぞれの民族独特の和声があってそれをヨーロッパ人が理解できないと言うことはないだろう、現に日本の旋律「さくら」などは非常に好まれているときく。
音楽は言葉を使わないコミュニケーションとしてものすごく優れたツールでは無いだろうか? 民族性を示すことができて、自分を示すことができて、それが相手に伝わる可能性を秘めている。もちろんそれで全てが伝わるわけはないし、意思疎通ができるわけではないだろうけど、一番大事な部分というか、心を伝えることができる手段となると思う。
しかもそれだけでなく、その音楽が気に入れば相手に安らぎを与えてあげられるかも知れない。おそらく動物や虫たちでさえ、音楽には何らかの感情を持つことだろうと想像する。それが何かを理解できなくても。
音楽の素晴らしいところは、何よりも「癒し」を与えてくれるところだろう、僕にはそう感じる。「興奮」や「悲しみ」中には「怒り」を伝える、または相手に感じさせる事が目的の音楽もあるだろう、映画音楽や効果音楽などがそう、でもそれでも最終的には観客を喜ばせることを目的とした音楽であるといえるだろう。もともと人を苦しめるために生まれた音楽なんてないんだと思う。
言葉や文書でも人に癒しを与えることはできるだろう。
しかし言葉は民族独特の物で通じない人には何も伝わらないし、時として「傷つける」道具となるときもある。人間が使う万能道具だからしょうがないのか。癒しを与えることができる「道具」の中でも音楽はとりわけ優秀な道具であると思う。
音楽に全く触れずに生きていく人もいるだろう、例えば「聾唖」の人たちがそうだ。最近身近に関わる聾唖の人がいるから、こういった人たちにとって音楽とは何だろうかと考える。聾唖の舞姫、小林さんがそうだ。
ましてや僕は小林さんと一緒の舞台で音楽の伴奏をしている。
これは重要な事だと思った。
・・・小林さんの後ろで演奏していると感じることがある、彼女の呼吸と動き、表情のそれら全体に音楽を感じるときがある。それに何となく感じるものを併せて弾いている感触だ。
その場その場で紡ぎ出す音楽、そんな能力が僕にあったらもっと素晴らしい舞台になった気がする。
12月のことば座の舞台でも演奏させてもらおうかと考えている。僕の演奏は素人の域を出るものではないから、正直舞台の「格」が落ちそうで怖い気がするが、それでも良いと言ってくれる白井さんに感謝しながら大役を引き受けようと思っている。
※一度公開後に加筆訂正しました。
そんなことを考える。
音楽はとってもいい、ギターに限らず、笛もバイオリンも、民族楽器も太鼓も全て音楽を紡ぎ上げる材料は全て好きだ。特にギターが好きなのは言うまでもないが、それは僕がこの人生の中で最も深く関わった楽器だからだろう。もし、中学校で吹奏楽部に入ってたら、他の楽器にのめり込んでいただろう。フルートか? トランペットか? 自己主張の少ない僕はなり手の少ないマイナー楽器をやっていたかも知れない。
オカリナが好きだった時期もある「宗二郎」ってオカリナ奏者がいたとおもうけどそのCDが好きで借りてきてはテープにダビングして聞いていた。こうして考えると、昔から独奏楽器が好きな傾向がある気がする。
なぜこんな文化が生まれたのだろう。音楽には国境があるようで、国境はないきがする。ヨーロッパで生まれた音楽は日本人に理解できない訳ではないし、アフリカの民族音楽でも日本人は心癒されることはあるだろう。もちろん、民族性やその周りの環境で生まれる楽器も、リズムも、旋律も全く違うかも知れないけど、旋律というのは言語と違って勉強しなくても理解できる。
ヨーロッパで生まれた音楽は学問として確立されているが、別にそんな学問が無くとも聞くことは出来るし、理解することができる。「ド」という音に「ミ」と「ソ」の西洋音楽的に「3度」と「5度」の音を重ねると「主和音」になって非常になじむ和音になる。しかしこの3つの音が馴染むと言うことは、聞いてみればわかる。別に日本人だろうが、アフリカンであろうが、アラスカのエスキモーであろうが音が卯という学問を知らなくとも、理解できるし感じることができる。
またそれぞれの民族独特の和声があってそれをヨーロッパ人が理解できないと言うことはないだろう、現に日本の旋律「さくら」などは非常に好まれているときく。
音楽は言葉を使わないコミュニケーションとしてものすごく優れたツールでは無いだろうか? 民族性を示すことができて、自分を示すことができて、それが相手に伝わる可能性を秘めている。もちろんそれで全てが伝わるわけはないし、意思疎通ができるわけではないだろうけど、一番大事な部分というか、心を伝えることができる手段となると思う。
しかもそれだけでなく、その音楽が気に入れば相手に安らぎを与えてあげられるかも知れない。おそらく動物や虫たちでさえ、音楽には何らかの感情を持つことだろうと想像する。それが何かを理解できなくても。
音楽の素晴らしいところは、何よりも「癒し」を与えてくれるところだろう、僕にはそう感じる。「興奮」や「悲しみ」中には「怒り」を伝える、または相手に感じさせる事が目的の音楽もあるだろう、映画音楽や効果音楽などがそう、でもそれでも最終的には観客を喜ばせることを目的とした音楽であるといえるだろう。もともと人を苦しめるために生まれた音楽なんてないんだと思う。
言葉や文書でも人に癒しを与えることはできるだろう。
しかし言葉は民族独特の物で通じない人には何も伝わらないし、時として「傷つける」道具となるときもある。人間が使う万能道具だからしょうがないのか。癒しを与えることができる「道具」の中でも音楽はとりわけ優秀な道具であると思う。
音楽に全く触れずに生きていく人もいるだろう、例えば「聾唖」の人たちがそうだ。最近身近に関わる聾唖の人がいるから、こういった人たちにとって音楽とは何だろうかと考える。聾唖の舞姫、小林さんがそうだ。
ましてや僕は小林さんと一緒の舞台で音楽の伴奏をしている。
これは重要な事だと思った。
・・・小林さんの後ろで演奏していると感じることがある、彼女の呼吸と動き、表情のそれら全体に音楽を感じるときがある。それに何となく感じるものを併せて弾いている感触だ。
その場その場で紡ぎ出す音楽、そんな能力が僕にあったらもっと素晴らしい舞台になった気がする。
12月のことば座の舞台でも演奏させてもらおうかと考えている。僕の演奏は素人の域を出るものではないから、正直舞台の「格」が落ちそうで怖い気がするが、それでも良いと言ってくれる白井さんに感謝しながら大役を引き受けようと思っている。
※一度公開後に加筆訂正しました。
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
| BLOGTOP |

